仏教、空の観点から自転車がパクられたのか、パクられてないのか。

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近所に買い物や、ちょっとした用事があるときは、小さい自転車で行く事が多い。

その自転車は5年前に譲り受けたものだが、いろいろパーツ交換や謎のハンドル仕様にかえているので、結構愛着はある。

でも、近所用だから・・・とか
最悪ぱくられても・・・とか、
面倒くさいし・・・とか、
短時間やし・・・とかを理由に
自転車には、基本、鍵はしていない。

家に置いている時も、基本はしていない。

でも、乗っていき、放置する度に、
あー早く戻らなぱくられるかなー・・・とか、
鍵もってきといたらよかったなー、とかすごく後悔しながら用事をするので、
気が気でないし、精神衛生上もよろしくはない。

で、今日もいつものように、鍵をせずに自転車を置いてると・・・

パクられてないよ

でも、言いたいのは、

こんなことしていたらいつか絶対パクられる。

今日はパクられなかったというだけの話だと思います。

そして、いつかはパクられるという事は、

未来に自転車が絶対ある保証はなく、いつかは買い換えなければならない、考えようによっては、

もうそれはパクられているのと同じ、

だと思うのですが、でも、今、自転車には乗れるのです。

それがどういう事なのかもう一度考えたいのです。

また別の話でこんなことも。
先日、母親の調子が悪いのでいろいろ検査していたが、結果「認知症予備軍」だと通達された。

認知症ではありません。

でも、予備軍です。

あなたは薬を飲みますか?

みたいな感じ。

でも、それって生きてたら遅かれ早かれなる可能性は誰だってあるやん。
生きている人全員が予備軍やん。

そうなると、遅かれ早かれなるってことは、もうなってるっていう事と同じ?

こういう事を仏教の世界では、「空」と呼びます。

般若心経に出てくる「色即是空」の「空」です。

ようは、この世にあるものは、常に実体などはないのです。

あるのは常に「現象」でしかない。

今日は、あなたの自転車だったが、明日はあなたの自転車ではない。

今日までは認知症ではなかったが、明日からあなたは認知症です。

この世は、そんな相対的な現象の連続でできているという考えです。

もちろん、私の考えではありませんが、とても共感できます。

絶対的なものはない、今日は人間だったが、明日はただのチリからもしれない。

そして、その相対的に存在する自分というのは、自分では創る事はできません。

自分ができるのは、他人にどう見られようとするかだけです。

自転車の鍵はやっぱりしめようと思います。

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